『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』で優勝を勝ち取る!!
最強のお笑いプロレス団体「西口プロレス」に所属する、アントニオ小猪木さん!
西口プロレスが立ち上がるまでの挫折や経験、そこから学んだ『成功の秘訣」など本音で語っていただきました。
安全第一・筋肉禁止・台本重視、から生み出される、笑いあり!涙あり!ポロリあり?の爆笑ライブを届ける西口プロレス!
闘宝伝笑2019 が、9月8日(日) 大阪の地、味園ユニバースで開催!
大阪は遠くて行けない!?
それなら9月24日(火)に新宿FACEに行くべし!!

【オフィシャルブログ|小猪木なんの木 気になる日記】
https://ameblo.jp/koanton//
お笑いをやろうと思ったきっかけは?






僕の頃はバブルで、職が山ほどあったんです。どこでも入れるぐらいの時代で。にもかかわらず、全く敏感なアンテナは立たずだったんです。


小学4年生の将来の夢には、「声優」っていうのも書いてまして。声優はやったことないんですけど、ある意味そういう方向性にはすでに、アンテナが立ってました。





その頃から独自の価値観をお持ちでいらっしゃって、、大学の時に就職するの嫌だなと思われた。

いわゆる、かったるい高校生たちだったんです、みんなが。覇気がなくて、元気なくて、暑がりで寒がりで、やる気なくて。みんなその気怠くいることがカッコいいと思ってた年頃だったんです。






なので、アルバイトも高校生の夏休みに友だちに誘われて行って、僕はそこに3年半か4年ぐらい通ってまして、お世話になりました。流される時は流されるって感じですかね。




でも再三再四「就職しろ」「就職しろ」って。「そんなに昼間来れるんだったらなんで就職しないんだ?」と言われて、そん時は芸人をやってるんだ、っていう理由は言ってなかったんです。
それで、その頃できた仲間の家に泊まりに行ったりとかして、朝方渋谷でポツンとしてたら、自衛隊員にスカウトされて(笑
「ご飯もごちそうしてあげるよ」って言われて、時間があるから行くわけです。それで体力測定とかさせられて。




それでちゃんとやるんだったら、お芝居を勉強したほうがいいのかな、という方向で行ったんです。それで、その後に欽ちゃん劇団に行きまして、それも辞めてから、芸人仲間とつるむようになりました。
その時は仲間たちで単独ライブばかりやってました。その後に芸人仲間とつるんでから、お笑いライブとか出るようになって。大体、月に2日に1回ペースでお笑いをやってた頃もありました。

そういうライブ生活をされながらずっと引っ越しのアルバイトをしてたんですか?

考えてみたら、コンビニエンスストア、レストラン、喫茶店、中華料理店、配送、お弁当宅配、新聞配達などなど、色んなのやりました。
アントニオ猪木さんのモノマネをやろうと思ったきっかけ


これが28歳、29歳。当時、30歳オーバーの売れてない芸人は本当にアウトな時代で。

今でこそそんなことないですけどね。

それで、僕はもう解散しちゃってるから、そこにはもう行けないじゃないですか。なので、半ば夢諦めかけたんです、正直。
その中で、うちのグループの仲間の1人が「西口プロレス立ち上げるから、猪木やってよ」って言われたんです。


それを知ってて彼が「猪木やってよ」。


親にも「プロレスはいい加減にしろ!」って言われたぐらい(笑

仲間の一言がきっかけで、猪木さんのモノマネを始められたんですね。



ここにちょっとわだかまりができまして、旗揚げ戦は僕は断りました。


例えば、親を継がなくちゃいけない、就職が決まっちゃった、大学卒業して、ただの芸人目指すんじゃ食ってけないから、親の反対があったからとか。


そういう仲間たちも見てるなかで、自分もその1人になってるわけじゃないですか。だけど、苦楽を共にした仲間でもあり、友だちでもあり、その彼は、再三再四に渡って誘ってくるわけです。「手伝いでもいいから来てくれて」と。
とりあえず1回行ってみんなの元気な姿を見た時に、「これだったらやってけるかな」っていう自信になりまして。。それで「わかった、やらしてもらう!」って、仲間に入れてもらいました。




過去に挫折した時なんかも、そんな時に限ってオーディションに受かったりとか、仕事が舞い込んできたりとかがありまして。だから、不思議と挫折の瞬間っていうのは、チャンスのきっかけなのかなって言う。

夢叶わなかった人もいっぱい居るわけなので、そういう時に限ってオーディションに受かるとかっていうのは、なるべくしてなった方なのかなと思います。

その頃は、コントでみんなとぶつかりあってケンカばっかりして、それでやる気がなくなって、内心「なんでこんな信頼ないやつらとお笑いって言っときながら、人を笑かせて、心は笑かせる気持ちも全くないのに舞台やってんだろう」とか、そんなことばっか考え始めちゃって。
これお笑いでもなんでもないよな、とか本当に悶々としてて、そんな中でオーディションに受かっちゃって、僕の知らない方々が笑ってくれたり、良くしてくれたりする中で、「生きる世界ってここだけじゃないんだな」っていうの学びました。
それで他のとこに行けば自分もまた生きるかもしんないとか、そういうことを学ばしてもらいました。


例えば「事務所辞めます僕は。お世話になりました」っていう後輩たちも、うちの事務所が答えじゃないから、もしかしたらよそ行ったら花が咲くかもわからないですから、僕は答えは1つじゃない!っていう考えになってます。
芸人をしていて大変だったこと

チラッと「挫折がいっぱいあった」とおっしゃってたんですけど、芸人をしていて一番大変だったことをお聞きしてもいいですか。

その頃、大変とは思ってなかったですけど、無駄な努力ばっかりしてたな、っていう感じですかね。

僕自身もそうでした。

あとは僕の同級生にプロボウラーになった同級生がいまして、久しぶりにその彼と会ったんです。
「なんでこのお仕事をやってるんですか?大変でしょ。」って聞かれたんだけど、「好きでやってるから」って率直に素直に言葉が出たんです。
そしたらその同級生が「僕と一緒だ」って言ってきたんです。きっと彼も同じ世代ですから、揺れ動いたと思うんです。今からプロで食ってけんのかなとか。


もう1人の同級生がいて、去年かな、一昨年かな、ガンで亡くなられまして。そんな彼とガンが見つかる前に遊んだんです。
その彼が「ブログ見てるぞ」と。「お前いいよな、楽しそうで。あんなかわいい女の子とばっか写ったり、有名人とも写真撮ったりとか、楽しそうだよな」って言ってきたんです。
でも実際は、芸人っつっても今はバイトしてないですけども、優雅な生活を送ってるかっていうとそうでもないですから。


彼も「つったって借金だぞ、全部」って言うんですけど、僕は借金はないにせよ、着陸するかしないかの低空な飛行なんですよ。




人を羨ましいと思ってる時に、自分も羨ましいと思われてんだ、って。


それがアントニオ猪木モノマネだったのです。
芸人をしていて嬉しかったこと



輝いてるというのは、それはやっぱり舞台の上とかで「ワーッ」てやってる時ですか。

例えば自信のない時とかって、人にも会いたくないし、「今、何やってるんですか?」って言われた時とか、「お前、この前もその話してたじゃん。あれからこの間まで変わってねえぞ」みたいなの見破られるのも嫌だし、

今は輝いてらっしゃると思うんですけど、芸人を辞めようと思った時っていうのは、他にはどんな時ですか?



それでなんとなく、自分が昔の住んでた町とかに行っちゃうわけ。それで、あるデパートに入ってエスカレーターに乗っている時に映った自分の顔が、ありえないぐらい自分じゃない顔してたんです。



行くことに価値がありますよね。

あの時、デパートの鏡に会わなかったら、もしかしたら復活してないかもしれないんですね。


その後オーディションに合格したことが、自分をつないでくれて、3回目は解散です。30歳前の当時、彼女もいて結婚も考えたんだけど、向こうにその気がなくて別れたんです。
そんな中「、猪木やってよ」って誘われて、30日間バイトして、その中の1日がアントニオ猪木のモノマネで輝けるんだったら、その人生でもいいじゃないかって。
本当だったら就職して普通に働いて、みたいな。でも就職して社会に貢献できる人たちは、僕以外にも山ほどいるじゃないですか。
僕はもしかしたら貢献できない、日の目を見ないような人生、将来は風呂なしで、トイレもなくて、四畳半に裸電球で、カップラーメンすすりながら死んで行くみたいな。っていう人生なっちゃうかもしんないけど、月に1回、大好きなアントニオ猪木になり切れるんだぜって思った時に、そっちでいいじゃん、って。


そんな中で仲間が声かけてきたんです。「お前さ、猪木やらないの。俺長州やろうと思ってんだけどさ」








その時に、今でいうGyaoですね。その人たちがたまたま見ていて「これ、うちらでぜひ中継さしてくれ」となりまして、ただ、「僕らリングがないんで、舞台でやってるんです」と。そしたら「それは困るから、スポンサー料じゃないですけど資金を渡すからこれでリングも借りてやってくれ」ということで中継が始まりました。


その1年は充実したんですけど、契約が終わって中継も全くなかった後に、3年目のジンクスというか今度は客層が減ってきたんです。
そこで、今後これからやってくかどうかっていうところまで話し合って、「辞める必要ないんじゃない」と僕が言ったんです。要は辞めたら終わりだけど、いいじゃんほそぼそやれば、って思ったんです。
それを乗り越えてから、まず西口プロレスのメンバーのハチミツ二郎がM-1ファイナリストになり、小力がR-1ファイナリストになり、その年に僕が『とんねるずのみなさんのおかげでした』の、『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』で優勝さしてもらい、そこから西口プロレスがバッと知名度が一気に上がりまして、僕もここからバイトをしない生活になりました。



アントニオ小猪木さんが考える『成功の秘訣』


始めた頃はマルチタレントっていう、司会やって、歌やって、お芝居やってみたいな、なんでもできるポジションになりたいと思っていくわけです。
けれど、ハッタリというものは1枚ずつ剥がされていくわけです。自分よりも上には上がいて、自分が描いてきたレールっていうか、青写真が全部通用しないわけです。そんな中で核として残ったものが子供の頃から好きだったプロレスだったんです。


点と点が線に。


ぶっちゃけ僕は、受験は高校の1回だけ。大学受験0、就職活動0ですよ。それでもいいんですか?と、聞いたら「そのままのお話をしてください」と言うので、僕は学校に講演に行きました。
「良い大学行って、良い就職してっていう人たちは山ほどいるから、そういう人の話に耳を傾けられる人は、その人たちの話をちゃんと聞いてください。ただ今回小猪木は、そういう話に耳を傾けられなかった人にお話をします」と。
「学校っていうのは何をするとこですか? 勉強するとこだね。授業と授業の間に何がありますか? 休み時間があります。休み時間、授業が終わった後の放課後、この間に僕、小猪木は全部プロレスごっこをやってました」




だから「あんたギターいい加減にしなさい!」とか、「漫画ばっか書いてないで!」とか親に怒られていたことが、もしかしたらそこに将来につながる何かがあるかもしれませんよと。
ただ、やるからには中途半端にやってても、上には上がいるから、そこで自分をどう出すか、個性をどう出すか、っていうところを教えてます、いつも。

すでにご成功されていて、これから先、将来の展望だったり目標っていうのは何かありますか?



だから、お笑い芸人としてコントと思えば引退はないわけですから、可能な限り続ければいいし。あと芸人ですから、色んなことがやれる、ということでいいんじゃないかなと。
芸人を目指している人へ一言


キャリアも浅い子たちだったから、与えられた尺の中でのパフォーマンスがフワフワしてて、何がしたいんだろうってのがすごい多かったんです。
さっき言ってた勉強できる人はほっといても勉強してくれるし、どんどん極めていくし、ほっといても漫才の勉強をしてトコトン極めて、テレビの世界に行くじゃないですか。
でも行けない人たち。彼らはそれこそ自分に合った武器をつけて、売れるかじゃないですかね。例えば芸を見せた時に、世界や雰囲気、そこのこだわりを見せなくちゃいけない。自分の信念とか、心の部分とか、自分のネタの中の核をちゃんと伝えていけばいいんじゃないでしょうか。




荒波に揉まれて、自分を試せば自分の才能と限界を知るわけですから。また次の世界に行った時に、挫折した自分と限界の自分を知ることによって、その仕事に向かえるじゃないですか。
なので、それこそ猪木さんが言うように、「迷わず行けよ、行けばわかるさ」という言葉が一番かなと思ってます。
芸人の夢が叶わなかった人へ


まして昔は「芸能界なんてそんな甘いもんじゃないぞ!」って親から大反対され、「中途半端だったら辞めちまえ!」っていう時代でしたけど、今は二足、三足、四足のわらじでも生きれる人生ですし。
なので、広く浅く生きるのも人生。1個のことを深く極めるのもOK。恋愛と一緒じゃないですかね。頑張りも大事ですけど、諦めも肝心。


夢がない、夢が見つからないと言う人へ


考えた時にザルと一緒ですよね。「ITやってみたけどダメだった、道路工事現場も体力ねえしな」みたいな。色んなことをやっていった時に出てくるものが何かですよね。
「俺ゲームしかできねえ」って言うんだったら「じゃあゲーム作っちまおうかな」とか思ったらいい。「じゃあゲームの世界ってどうやってできてんだろう」って思ったら、「すいません、ゲームってどうやって作るか知りたいがために、ここに就職に来ました」でもいいと思うんです。
全く興味がない人よりは絶対に興味があると思うんで。僕はゲームに興味ないんで(笑


金儲けだけじゃないと思うんです。自分がいかに輝けるか、だと思います。

自分の中の核をもって、中途半端ではなく全力で取り組むことですね。
本日はありがとうございました!
9月8日(日)西口プロレスでアントニオ小猪木さんに会いに行こう!

9月24日(火)連休明け初日は西口プロレス!!!

