中学2年生から描き続け漫画家へ
1987年に『ff(フォルテシモ)』が週刊少年ジャンプで受賞!本誌デビューを果たす!
1996年には青年誌に移り、スーパージャンプで『交通事故鑑定人 環倫一郎』を7年に渡って連載!
連載経験、講師経験を活かし『10年メシが食える漫画入門 悪魔の脚本 魔法のデッサン』を出版。Amazonや楽天といったサイトで1位となるロングセラーに!
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樹崎聖☆コミチ連載するよ✳︎垢移動しました⭐︎漫元(@mangagenki
現在の活動について


出版社を通してしまうと限定されるんで。






でも、それをよくわかっていない作家とかも結構いると思うんで。








一番最初の目立った賛同者だったと思うんですよ。

マンガ図書館Zだと、広告が定期的に入っていますよね。



Zっていうのは絶版図書館の名残ですね。


だから絶版じゃないけど「じゃあ、そこの中のまず代表的な作品になるように。」っていうことで最初に提供して。当初はテレビに出てインタビュー受けたりとかそんなこともしていましたね。






今までの自分で作った本を、例えばAmazonとかで売ると1,000円のものが2,000円近くなっちゃったりみたいな感じになっていたのが、それが1,200円くらいで済むみたいな感じですかね。

漫画家を目指したきっかけ





もう完全に中学校2年生で本気で漫画家になろうと思って、ペンで原稿に描き始めました。


どっちかって言うと「僕には言いたいことがある。書かなきゃやっていけないというか、生きていけない。」っていう気持ちがあったんです。










ただギラギラしたものが昔と比べたらなくなったっていうのは、もう15年ぐらい前から言われますね。


だから1円でもいいとかそういう覚悟で臨んでいたんで。今でももう一度チャンスくれるなら死んでもいいって思うんですけどね。
よく話すんですけど、「戦場に行った人はまた戦場に行きたがる。」あれだと思うんですよ。もう本当酷い目にあったなって思うんだけど、「でももう一回チャンスあればもう一回行くぞ!」っていう。

努力したからといって50歳でそれで飯が食えるか分からない。だからこそ楽しいですけどね。大変だけど楽しいですよね(笑。普通のサラリーマンじゃ味わえない世界なので。


先生って1つのアルバイトとかされた経験はありますか?




樹崎さんはサラリーマン経験っていうのはあるんですか?

サラリーマン経験はないけど15年ぐらい前ですかね、専門学校で教えていたことはあります。







デビューのきっかけ





少年マガジンに担当がいてそこで連載するものと思っていたんですけど、原作もらって連載したこともあったし、もう学生中にそこまではいっていたんです。
学校にはデビューして連載する先輩方もいっぱいいて、手伝ったりもしていたんで、自分の力みたいなのは大体予想はついていたんですけど全然デビューできないくて。しかも最後は大学卒業間際で担当が左遷になっちゃって。




最初、僕の原点だったチャップリンからギャグ漫画描いていて、最初見せた原稿をずーっと読んでいて、「くっだらねー。」って(笑。「じゃあこのあと飯食いに行こうか。」って(笑

樹崎先生っていったら「交通事故鑑定人」のイメージが強かったんで、あんまりギャグの要素ないじゃないですか。

デビュー作の前の作品はやっぱりギャグ漫画だったんですけど、久々に賞が全く引っかからなくて、全然ダメだったんで「もう止め、僕には向いていない」って思って、自分に向いているのはやっぱりストーリー漫画だなって。


クラシックピアノっていうか音楽をおたまじゃくしを空に飛ばさないで描く漫画っていうのは当時ほぼなかったんですよ。だから少年誌向けのストーリー漫画ででは多分初だと思うんで、おかげで全項目満点で入選になってくれて。


漫画家をしていて大変だったこと



最初の連載の時はよくわかっていなかったんで、「締め切りを守ることが一番大事だ!」って担当に言われて締め切りにきっちり間に合わそうと描いていたんですけど、実際に雑誌に載ってみたらスカスカで絵の密度が少年ジャンプの中で浮いているレベルで、「あ、これダメだな。」と思って途中からガンガン描き込み始めました。


再連載の話もあったらしいんですけど、担当が多分僕にすごく期待していたせいで勝手に断っちゃって、「いや、断らないでほしかった。」っていうの未だに思いますけど。




特にすごいなって思ったのは「BASTARD!!」を描かれている萩原一至さんのところを手伝った時ですね。
萩原さんの気合の入りっぷり、原稿への情熱のかけっぷり。色んな情報を集めて整理して、それを作品の1コマ1コマについて色んな情報を詰め込んでいて、その妥協のなさみたいなのがものすごくて。



あとお聞きしたかったのは、先生が「ふたりエッチ」とか描いていた克・亜樹先生のところにも?

大学時代、手伝いさせてもらっていたんで未だに仲良くさせてもらってますね。


克・亜樹さんの影響は大きいですね。絵的とかっていうよりも生き方として素晴らしいなと思って。


子どもの頃から描いたっていう漫画が机の前に端から端まで並んでいるんですよ。それがすでにすごいことだなって。








漫画家をしていての失敗談





ジャンプって前向きな主人公でないとウケないんですよ。




2度目の時は7話で人気がドカンってきたので、その時は1回目の編集会議のタイミングでは生き残ったんですよ(笑。
ただボクシングっていうものがジャンプでまだ人気がなくて、試合に入ると上がった人気がいきなり最下位に落ちるみたいなのがあって。
ここで方向転換できるなんか融通が利くものがあればよかったんですけど、試合の描き方が悪いに違いないと考えて、あれこれやっては失敗ですね。

特に傾向と対策のところで、今まで漫画家をされていて一番よかったことというのをお伺いしてもいいですか?







僕はキャラクターを描いたり人間ドラマを描いたり、そういうところが得意なんで。






普段目を閉じていて、いざという時だけ片目を開けるキャラクターっていうのを設定して、、、まず担当に反対されましたね(笑


それはスーパージャンプでその前に一番人気をとっていた漫画が「企業戦士ヤマザキ」っていう眼鏡で目の表情が一切見えないキャラクターだったからです。




でも最近いろいろとまたあったのでモチベーションができてきまして、多分今後また描き始めることになると思うんです。

振り返ると、漫画家として食べていける『成功の秘訣』というのはどんな点にあると思いますか?



誰もが克・亜樹さんみたいに描けるかっていうと僕も描けないし、でもそのための準備はしておかなきゃいけない。いきなり描こうと思ったって絶対描けないですよね?


だから漫画家になろうって思って描きたいし、描かなきゃいけないと思うことがあっても、僕も最初の何年かは全然描けなかったんで。


やりたいことあったはずなのに10年かかっている。



それだけ長い間、漫画を描かれていてやっと今、みたいなことをおっしゃられてましたが、今後の将来の展望とか、目標というのはあったりするんですか?

漫画家を目指している人へ一言


日本には漫画家を目指している子供たちがいっぱいいて、今、漫画家を目指している人に向けてぜひ一言お願いしてもいいですか?



だから僕が呼ばれるのは、本当高いレベルの技術が欲しいからなんですよね。それだけ中国の人もわかっている。だから日本の人は負けちゃいられないわけですよね。




僕はそこを大事にしてもらいたいなと思いますね。
漫画家を諦め、別の道は進む人へ一言


漫画の技術みたいなことも結局、後になってそれが本にできていたり。


今、モーションコミックのライブをプロデュースして、自分で演出もしているんですけど、動画も自分で作るわけですよ。そうすると、音楽知識が役に立つんですよね。


自分の中でサントラの引き出しがいくらでもあって、だからミュージシャンと打ち合わせする時に、「あの時のあの曲のこんな感じ。」みたいな(笑

頑張ってきたことってどこで役立つかわかんないですね。

